ここに座って、相当な時間になる。
グイグイと、状況を変換させることにはなっていない。
が、昨日(4日、以下同)書いたことで、少し心持が変わってきた。
昨日までは、流れのなかでいろいろやっていること(炊事とかの家事とか、その他多少動いていることなど)が、まるで浮草の離れた根のように流されていっていたところがあるのだが(だから、やっていても、どこか捉えどころの無さを感じていたのだが・・・・・)、 今日は、その根を、どう捕まえようかというような、心の働きがあった。
今まで、自分が経験してきたことを、取り敢えずにしろ、どこかにしろ、収束させるような働きだ。
押し寄せてくる流れを、受け止めて、カチッと、そして、逆に跳ね返すような力だ。
こんなことなんか、とてもじゃないが、畏れ多くて、夢にも思わなかったのだが・・・・・・・。
寄ってたかってかかってくるものを、束になって押し寄せてくるものを、「来るなら、来い」と、ドーンと受け止めてやろうじゃないか、というのだ。
自分のなかに、こんなものがあろうなんて、自分でも予想だにしていなかった。 とにかく、自分の今までしてきたことも、皆、受け止めてやろうじゃないかと、いうのだから!
「あ、あれは、私の仮の姿で・・・」とか言うのではなくて、「はい、確かに私の仕業であります。 皆様がお感じになったことと同じように、私も受け止めたいと思います」と言うことが、おそらく正しいのだろうと、思う。
だって、いくら、こっちに理屈があったとしても、客観的な自分の姿というものは、まず、認めることだけは認めなければならないだろうと、思うのだ。
だって、それは、客観的な私の姿なのだから・・・・。
その上で、どう返すかということだ。
それは生半可なことじゃない。 まず、認めることが難事業だ。 おそらく、私は認めたくないだろう。 その気持も正直なところだから、それをくぐって、認めなければならないのだ。
ありとあらゆる自分の経験のなかから、自分がだいじにしてきたものを、探してみよう。
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