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『原爆と戦争』展の撤収には行けなかった。 腰が痛く、力仕事は難しかった。
が、買い物には遅くなって行った。 明日、庭木の剪定にシルバー人材センターから来るので、お茶請けの用意に。 腰痛は睡眠不足の累積によるものと思うが、夜中の3時過ぎ、4時近くまで起きているのが習慣になっていて、なかなか就床できない。 ゆうべ(6月30日夜、以下同)もそうで、明け方よりは早かったが、それでも遅くても09時ごろには目が覚めるから、腰の痛みが残ったままだった。 他のことをする気力が無く、食事を済ませたあとは、ひたすら横になっていて、かなり苦しい夢を何度か見たりした。 おかげで、少し回復したが、撤収には間に合わなかった。 全体的に、求められる人間になるのではなく、今、出来る範囲でのことを、こなしていこうという気持ちになっていることに気がついた。 これは、同じ、求められていることをするのでも、違う。 全部出来なければいけないというのと、出来ることだけでいい、というのとの違いだ。 全部というと、出来ないことのほうが多いのだから、気持ちはブルーになる。 それが、この間の閉じこもり(?)の要因だ。 そんなこと、出来るわけがないんだ。 まだまだ、かつて持っていたAll or Nothingの思考パターンが残っているのだ。 と言うか、似たような状況下では、顔を出してくるということだ。 出来ることを、出来るだけ(この2番目の「出来るだけ」はあとう限りではなくて、すなわち精1杯ではなくて、可能なほどという「ほどほどで」という意味だ)と思うと、楽しくなってくる。 楽しいなんて言葉は、私には無縁だったんだがなあ・・・・。 やることが出来ることが喜びになるから、楽しいのだ。 漠然とだったが、私は、自己肯定感が前面に出てきて以降、折々、この楽しさを感じていた。 それまでは、行為は、苦痛でしかなかったのだが・・・・・。 すなわち、「やらなければならない」ことだったのだ。 それは、やっても、喜びにはならないのだ。 やって、当たり前、誰も褒めてくれるわけではないのだが、もし、褒めてくれる人間がいても、自分では、少しも嬉しくないのだ。 やって当たり前だったから・・・・・・。 「自己肯定感」を、ほんとうに感じることが出来るかどうかは、大きな分かれ目だ。 自分自身の「存在感」を感じられない人間は、「存在感」を感じたいと思うからこそ、出来るだけ、求められることをしようとするのだ。 それは、優秀な演技者が、見事に劇中人物を演じるのと、似たところがある。 劇の場合は、それで成り立つのだが、劇ではない、通常の人生においては、見事に演じれば演じるほど、自分の実体から遠く離れていって、ちょうど、操り人形が動いてでもいるかのように、感じられるのだと、思う。 「求められる」ことをするというのが曲者かもしれない。 反対言葉は「したい」ことをするかもしれない。 「したい」と言うときには、自己発動性、自己能動性が求められる。 このとき、自己肯定感を持っていないと、「自己」を主張するなんて、空恐ろしくて出来るものではない。 「自己肯定感」て、どうして獲得するものだろう。 私の場合は、自分がそれを「持っていない」ことに気付くことが、決定的だった。 持っていたのは、嘘ごとの「ねばならない」ことを、1所懸命やっていた自分だった。 それは、自分の「存在」を、認めてもらいたいからだった。 私は「存在」承認を1心に願っていたのだ。 それは、子どものときに、私の「存在」を、あたかも無きが如くの扱いを受けたからだ(私の場合は、精神的な養育放棄だったが)。 そのときから、私は、ひたすら「存在」承認を求め続けていたのだ。 そして、それが求められないことに、ただただ悶々としていたのだが、「共依存」という言葉を知って、「求める」者と「求められる」者との関係は、「支配」、「被支配」の共依存関係になっていると知り、悶々の霧が晴れるような展望を見出した。 すなわち、「求められる」者は「承認」を得たいとひたすら擦り寄ってくる「求める」者を、意のままに扱うことが出来るわけだ。 すなわち、(こういう使い方があるかどうか知らないが)完全な「支配」「被支配」関係が出来上がるのだ。 そして、この関係を続ける限り、おそらく永遠に(承認を)「求める」ことは出来ないのだ。 私は、とんでもない無駄な努力をしていたのだと気がついた。 それこそ、目が覚める思いだった。 そして、そのときから、私は、「求める」ことを止めたのだ。 止めて始めて、私は、「何も持っていない」ことに、気がついた。 そして、「自己承認(存在感の獲得)」は、与えられるものではなくて、自分で勝ち取っていくものであることにも気がついたのだ。 もちろん、養育過程においては、周囲からのフォローが何よりの糧になるだろうが、大きな大人になってからでは、人に頼ることは出来ないのだ。・・・・・・・ それから、砂粒を積むように「自ら信ずるに足るもの」を積み上げてきた。 ほんとうに手探りだった。 そうして11年余、量的変化の増大が質的変化をもたらし、「自己否定感」は私の後景に退き、私という人間の前面に、「自己肯定感」が躍り出てきたのだ。 それこそ、主役交代。 正真正銘、「私の物語」が語られ始めているところだ。 にほんブログ村 メンタルヘルス ブログランキングへ
by Silvergray777jp
| 2013-07-02 02:44
| トラウマサバイバー
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