現実への対処に、私特有の悩みがあるのだったら、その対処の仕方にも、私なりの、私特有のやり方があってもいいのではないかと思ったのだ。
特有の感じ方をするのだ、現実に対して。 だから、その現実への対処の仕方だって、私流があってもいいのじゃないか、むしろその方が、実際に現実にかみ合えるだろうと、思うのだ。
なんか、問題の性質を正しく捉えて、だから、問題は何かということを認識して、それに合った対処をと思っていたのだが、だから、ある意味では、その通りになったのだが、しかしこれは、いわゆる世間での通り相場である、問題解決方法とは異なるように思う。 どこが異なるかというと、まず、私独特の感じ方があるというところから始まっているのだ。 今までの私は、このように感じることが間違っているという風に思っていたのだ。
自分の、ありのままの状態から、やはり出発しなければならないのだ。 自己否定から始めたら、そりゃあ、前へは進まない。
現実への対処ができないのではなくて、私なりの対処の仕方があるだろう、という話なのだ!
ボーリングの球の投げ方を見ていると、実にさまざまで、定型通りのほうが少ないのではないか? それと同じように、さまざまな対処の仕方があってもいいわけだし、現実に、人はさまざまな対処をしているのではないだろうか? もちろん100点満点というか、80点以上ぐらいの対処の仕方が望ましいのかもしれないが、氏も育ちも違う人間、100人100様が、それこそ当たり前なんだろう。・・・・・
私は珍しい部類の毛色に属するのかもしれないが、しようがないじゃないか、そうなっているのだから・・・・。
ACならではの感じ方、同じACでも私に固有の感じ方をしているわけだ。 それなら、私固有の対処の仕方があってもいいだろう、どや(!)と、いう具合。
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