今日は1日、気合が入らず、ゴロゴロだった。 庭仕事しょうと思ったが、ほんとうに気合が入らず、休んでいた方が良い感じで、無理しなかった。
睡眠は6時間寝ていた。 体が言うことを聞かないときがあるのだ。
ゴロゴロしていたが、しっかり休むわけでもなく、テレビを見たりPCをそう積極的ではなかったがいらっていたりしたので、中途半端な気持ちだ。
今も、まぶたが垂れ気味だ。
食事だけはした。 あとは、ほんとうに何もしていないな。
「自分に必要なことを考える」ということを、改めて思った。
こういう無為のときは、自分を責める気持ちになるのだが、それが毒であることを思うと同時に、先日思った「自分に必要な価値」ということを、少し深く、また、実感を持って思った。
それは、「自分に必要なことをする」と、いうことでもあるのだ。
そう言えば、「自分に必要なことをする」ことは、ほとんど無かったのではないだろうかと、ぼんやりではあるが思った。
特に自覚的にそうしたことは、皆無かもしれないと、思う。
やむにやまれずというか、必要に迫られてというか、切羽詰まって同じようなことをしたことはあったかもしれないが、意志的に、したことは、無かったのではないだろうか?
自分が主人公ではなかったからな~・・・・・。 常に他人の規律で動いていたんだな~・・・・・。
斎藤学さんの言われる「自立&自律」の自律は、このことかもしれないな~。
自分を他と区別して、寄りかかることなく独り立ちすることが自立かもしれない。
自律は、自分が自分の主人公であること、自分の物差し、自分の尺度で動くこと、周りにはいろんな考えがあるけど、自分の思い、また考えがあって、「自分はこうする」という指針を、自分で持つことができることかもしれない。
感情も感覚も含めて、自分の体を自分で動かしていくことができる、ということかもしれない。
自分の感情、感覚、気持ち、考え、思いということを、改めて考えてみなければならないように思う。 「自分」という冠詞をつけて。・・・・・・・
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